つぶやきば@はてなブログ(跡地)

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沈黙は肯定、言及も肯定、ならば私は何を語ればいいのか?

p_shirokuma氏のオタクにまつわる一連のテキスト(惑星開発委員会宇野常寛氏の文章等)を読んでいて感じるのは、「自分の意見に言及することそのものが、言及した者の執着(コンプレックス)を何よりも証明している」というスタンスを取っていることです。相対する相手の思想信条その他もろもろを炙り出す点において、これは非常に有効な手段です。そして、反論を全て「言及したな!」「こんなテキストに怒り狂うから駄目なんだよ」といった感じでメタ化、もしくはレベルの低い相手としてあしらうことも可能です。

このようなスタンスを取っている書き手に対して私はこんな疑問を持ちます。
「あなたのテキストに対して誰一人反応しない世界、それを望んでらっしゃるのか?」
「「言及したな!」とタグを付けることがなくなる状況を望んでらっしゃるのか?」と。
そしてこうも思います。「言及したものに対して個々に具体的なソリューションを提示する気があるのか?」と。

以前、シロクマ氏のスタイルに言及した際、「非モテのテキストから或る心的傾向を抽出しようとしている」「非モテの心的傾向を抽出したがっているのは、本家のオタク研究と関連した心的傾向が見つけられそうだから」「web上に掲載するのは、それを消えない形で保存するため&オタクについて知りたい他の人達と知識を共有し、彼らと議論を深めたいから」とコメントを頂きましたが、それならばなおさら「言及したな!」メソッドは逆効果ではないかと思うのです。「言及したもの=コンプレックスを抱えている人間」「言及されたもの=充足している人間」という前提で議論が始まると、対等な関係での議論に発展しづらいと考えるからです。それとも、「言及したな!」と野次ってふらつく程度の人間と議論しても仕方がない、それくらい屁とも思わない者だけ向かってこい!というギミックなのでしょうか?

差し当たって総論的なものをまとめてみました。