つぶやきば@はてなブログ(跡地)

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「脱オタ」の「オタ」は象徴としての「オタ」

「脱オタ成功した!」という方の文章を眺めていてふと思ったことですが、「脱オタ」を巡るあらゆる言説につきまとう「誤解」は、「脱・コミュニケーション不全」という表現が定着していればその多くは防げたのではないでしょうか。まあ「脱・コミュニケーション不全」だと長ったらしいし、「他人との意思疎通が上手く取れない上に、見た目に気を使わず見ず知らずの人間から罵倒、もしくは嘲笑される存在」である自分を変えるため、「オタク」という属性をスケープゴートにするのが何かと手っ取り早かったのでしょう。私も禁煙が続いていた時代はひたすら「大橋巨泉に出来て、俺に出来ないはずがない!」と念仏のように唱えていましたからw(最近は禁煙についてどうでもよくなりました。これ以上性欲を持て余しても仕方ありませんしねw)
「脱オタ」に成功し、その手の趣味から完全撤退した人間が「俺は脱オタした!」と宣言するのは理に適ってますが、そうではない人は「好きなものに没頭しすぎていた自分を見つめなおす」という、言ってみれば「生活習慣の改善」として括られるべき話なんじゃないのかなぁと。それを無理やり「オタク」で語ろうとするから何かと無理が生じるのではないかと。「オタク」と言われる人間にも超難関の一流出版社や大新聞に就職している人はいるわけですしね。
「オタクである」ことと「コミュニケーション不全である」ことに因果関係はなく、その2つを結び付けたい「脱オタ」成功者は、自身の「黒歴史」を「オタク」属性のせいにしたいだけなんじゃないのか?という問題提起をして終わりにしたいと思います。